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あけましておめでとうございます
2009/01/01

今年も、いや、今年はよろしくお願いいたします。

というくらい、昨年は参加が減ってしまいました。
LP21では、この改善が今年の目標です。

お会いしたときの話のネタで…私のHP(業務上の雑感のページ)に当事務所の年賀状を掲載しておきました。その図柄…気になる方はいないかなー…。

http://www.ofnon.com/

長文が書けなくなったなー
2008/12/12

最近、長文を書く機会が少なくなりました。

そのためか、以前よりも効率が悪い。
その前に、長文を作成するツールが常備されていない。

かつては、パソコンにはそれようのソフトがはいっていましたし、持ち歩くモバイルにもそれに対応や連携したものをもっていましたが、最近はめっきり。

そりゃ、MS−Wordも使いこなせば長文に対応しているのだろうけれど、そもそもWordは苦手なので…。

大学に入ったばかりの頃(もう20年以上前だ)は、PEMOというシェアウェアをつかっていました。いまだに、これが最高のソフトだと思っています。あの、カードを重ねたようなデザインの…カード型データベースのような、アウトラインプロセッサのような。
その後、Wordを一時期つかっていました。が、これはどうしても脚注機能が必要なときに臨時に使うのみ。

私は、学部の論文は、Vzエディタと、そのマクロであるoutline.defでその殆どを書きました。あの組み合わせは、上記MEMOに続く環境だった…。印刷するときは、PRTやそのパッチ適用版やシェアウェア版のPRT++とか、FM対応版…などといったら、当時のパソコンユーザはきっと懐かしい言葉でしょう。でも、この組み合わせは本当に便利だったと思います。

大学卒業の頃は、j3100ss001や、FMR-CARDあたりがメインになりました。ここで、上記のMEMOは、使えなくなってしまったわけです(当時は機種依存がありましたから)。が、JEMOなるPEMOのJ3100版を作者が開発してくれたり、パワーユーザがパッチを提供してくれたりで、補助的にMEMO、PEMO、JEMO、FEMO(は、今思うと違法改造だったのでは…FMR対応版)なんてつかっていたりして。

あと便利だったのが、XTR。これはいろいろ加工したり、一括変換するのに本当に便利でした。XTRのマクロとはいいませんね、スクリプトもいくつかつかっていましたし、それを改造して自分でも定義ファイルをつくって使用していました。

GREPなどは私はついに使いこなせなかったのですが、基本的な検索などには充分応用していました。万単位の文章で検索をかけるとなると、GREPは必須といってよかったかと思いますし、grepがアウトラインプロセッサ的にエディタを使うポイントだったとさえ思います(特定の文字列などが含まれる行を検索し、タグを出力してくれますから、タイトルや章・項にきまったマークをつけておくことで、grepの検索結果が、アウトライン=目次そのものになるし、タグがあるからそこからハイパーリンクすることができるためです)。

一時期、重宝したのが、「直子の代筆」シリーズ。テグレット社の製品で、直子を買うと、おまけでいろんな便利なツールがありました。このころは、それをVZのマクロで自動化して組み合わせたりして、私も簡単なマクロはくんでいましたから…。

これらのツールは、短文から長文まで、レイアウトにこだわらない文書ならば、なんでもこい、という便利なものたちでした。これらが今のDOS/Vパソコンの末裔たるWindowsパソコンできちんと動くならば、今でもこれ専用のマシンが欲しいと思うほどです。フロッピーディスク1枚でソフトはおさまるでしょうし。

こんな最後に登場したのが、OASYSポケット3。PRTシリーズやXTRで印刷も結構凝ったことができるといえども限界がありましたから、DOSファイルで整形したり、PRTの埋め込みコマンドをOASYS用に変換するマクロなどを駆使して読み込ませ、OASYSの装飾をして印刷…(オアシスポケットの印刷は当時としても貧弱だったので、FM−OASYS文書にしてですが)というのが、大学院に通っていたころの形態でしょうか。

そのあと、行政書士をはじめて、長文はあまり書かなくなりました。せいぜい数千文字程度の陳情書、上申書、理由書のたぐい程度。万をこえる文章って、本当に書かなくなりました。長くなくなったのはよいこと…という見方もありますが。

そんな中、久しぶりの今月は25000文字相当の文章を作成しました。冒頭のように、長い文章を書くのに不慣れになっていただけでなく、それに適したソフトもなかったので、これがなかなか苦戦。一応フリーのアウトラインプロセッサを導入して、項目、章立て作成に役立てたり、章立ての変更や文書全体の構造を見渡す程度には活用できましたが、根本的なところで、使いこなせていなかったような気がします。それと、最近の(てっ、今回いくつか試して使ったものは、もう6−7年前に公開されたフリーウェアですが)アウトラインプロセッサは、なぜかツリー表示はかり。ツリー表示は階層が深くなったり、一つ一つの項目タイトルが長いときにはあまり便利ではありません。MEMO/PEMOのようなカードを重ねたタイプや、VZのアウトラインマクロのような階層式テキスト表示の方が狭い画面をフル活用できます。操作も直感的になりますし…。
検索機能も高度なものはありますが、正規表現での検索が不親切だったりできなかったり。そういえば、DOSのソフトでZFなんてソフトがありました。そうすると、ZFのあいまい検索だと「いう」「言う」を選択して検索して、VZのマクロでどちらかに統一させることなどもできたのですが、こんな簡単なことができない。

もちろん、仕事上の専用ソフトは進歩しているように思いますが、レイアウトにこだわらない長文作成、という、日本語入力には基本的なことが、もう私が大学のころから進歩していないような気がしてきます。

ま、そういうソフト以上に、私も歳か…。2万文字からなると、どこに何を書いたのかが覚えていられない。章立ても頭にはいっていて、アウトランは頭の中でもそこそこまとまっていたのですが、今回はそれが不十分でした。やはり書き慣れていないとダメですね。

自費出版でまとめたい題材もあり、数年前まではそれを意識していたのですが、最近はなんとなく離れていました。

今回のことをきっかけに、少し長文をまとめる練習もしないと、将来やりたくなったときにできないな、と思うのでした。

ちなみに、今回の25000文字弱の文章は、群馬県行政書士会会報への投稿です。行政書士と知財法に関する内容ながら、行政書士論的なところにかなり言及しています。

いないとは思いますが、もし、関心のある方は、メールいただければ原稿をお送りします。ご意見などいただければ幸いです。
(会報は、来年1月発行で、群馬県内の主要図書館にはおかれています)。

戸籍などの職務上請求
2008/10/23

愚痴も半分なんですが、表題のこと、行政書士などの一定の資格者は、職務上、戸籍などを請求することが可能でした。

いや、今も可能です。

が、請求する際に、記載しなければならないことが、めちゃくちゃに増えました。

で、まずは愚痴なんですが。
以前は、職務上請求用紙という用紙に記載して申請しますが、せいぜい1枚あたり1分もあれば記載できました。
今回の改正で、上記のとおり記載項目がめちゃくちゃに増えました。こうなると、1枚書くのも一苦労。

ちょっとお金はかかりますが、ゴム印でもつくって、大量処理したいところです。
そもそも専用の用紙というのが面倒で、2枚複写になっています。2枚複写でなければ、ワープロソフトなどでフォームをつくっておいて、これまた面倒なことにこのたび、A4版の申請用紙になったので、プリンタで印刷することも簡単にできるところです。
そうそう、このA4に大きくなったのも面倒というか、荷物が増えるというか。今まで専用の袋にいれていたのですが、これに入らなくなって…。

そもそも、これを今度郵便で申請するとなると、ゆうちょ銀行が発足と同時に、郵便小為替の手数料を10倍にするという暴挙にでました。だから、役所の方もお釣りの小為替を用意するとコストがかかるというわけで、お釣りのいらないように、などといっています。
そもそも、なんで電子申請させないの??
手数料はペイジーでいいじゃない。
電子申請とすれば、行政書士はじめとして、今や職務上の請求であることを証明するために、電子署名を資格者はできるようになっています。これでいいじゃないですか。
また、行政書士会も、職務上請求用紙をしっかり管理する方法を模索しているそうです。それならば、電子申請として、副本(電子ですから正確にはこうはいいませんが…。メールでいうBCCで)を行政書士会なり、管理するサーバーにおくるようにすれば、すべてが解決するではないですか。

それはともかくとして、今どき、戸籍や住民票など、まだ電子申請に対応しておらず、過去の遺物、ゆうちょ銀行のぼろ儲けの手伝いにすぎない郵便小為替で手数料をおさめさせるとは…。郵送請求がこの状態ならば、せめて、住基ネットを利用して、北海道の戸籍や住民票も沖縄の市町村役場でとれるようにするくらいの工夫は、いい加減にして欲しいところです。

そして、ここからは愚痴ではなく、今回の改正のおかしいと思うところ。

請求する際に、依頼者名と、請求の理由、また、提出先などを記載することになりました。が、弁護士が裁判で請求するときは記載不要ということ。
これは、万が一にも、裁判での請求ということが漏れてしまうと、弊害が大きい、ということが理由とのことです。

そう、漏れることを想定しているのです。

ならば、たとえば、「建設業許可申請で添付するために○○会社からの請求で請求して、埼玉県に提出します」ということを、行政書士が請求するときに記載するとします。

これ、建設業はまだいいが…風俗営業とか、農地法とか、競争のあるところで、万が一漏れてしまって、競合他社にだしぬかれたら…。

裁判は事後のことですが、許認可はこれからの競争に関係することですから、経済的損失は同等以上になることは少なくありません。

なのになぜ??

(いや、愚痴にもどりまして、これらを記入することが面倒だから、というのももちろんあるのですが)。

実際、遺言起案の仕事で、以前に相続人を確認するために請求したことがあります。たまたま本籍地が非常に小さい自治体で、そこに戸籍を請求したら、もう秘密は漏れるのはあたりまえ。その結果、遺言書くんだって?と、親族にいわれてしまったという例があります。
また、離婚後の銀行への手続で、(権利義務に関する書類作成業務ですが)戸籍を請求したときに、「へー、○○さん離婚したんですか」といわれ、それがまぁ、小さい役場だったので、待合室でまっている方に聞こえてしまって、ということもありました。
さらに、市役所職員が請求書を無造作にカウンターにおいて端末(住民票を検索する端末)を操作したために、他の請求できていた人に丸見え…という状況に゛遭遇したこともあります。

そのくらい、(住基ネットの情報漏洩よりも、紙の方がよほど危険という意味も含めて)請求書にいろいろ記載するということは、漏洩につながるということを、ここではいいたいわけです。

ふと…。本日、この面倒な職務上請求書をたくさん書く場面がありました。
そのうち、半分くらいは本人からの依頼(相続などは本人からではなく、他の相続人の分まで請求することがあるので、かならずしも本人からの依頼ではないのですが)。
ならば、委任状1枚書いてもらって、職務上でなく、単なる一般の代理人として請求した方が、面倒な職務上請求書を書かなくてすむし、委任状はワープロソフトで定型化して簡略化できます。依頼者は書くとしても、使用目的は委任状には不要ですから(役場備えつけの用紙には記載しますが)、漏洩のリスクも低減します。

こうなると、できる限り職務上請求用紙をつかわない方が得策、という気が、作業面でも、依頼者の権利保護のためにもしてきました。

たしかに不正使用を防ぐために、改正である程度記載項目を増やす必要はあったかと思います。しかし、職務上請求の方が項目が多い、ということは、それだけ漏洩のリスクが高まるし、そもそも資格者に請求を認めている趣旨に照らしても、行き過ぎだったように感じざるをえません。これは、面倒だ、という部分を抜きにして感じるところです。

私は上記の内容の一部をみれば明らかなように、住基ネットは推進、促進に賛成派の見解ですが(それは、上記のとおり、漏洩リスクは電子的な技術からのそれよりも、公務員の職務対応によるそれの方がはるかに多いと考えられるからなのですが)、一部脱退した自治体をのぞいてはネットワーク自体はあるのですから、まずは、資格者からの請求に開放・利用して、上記の職務上請求を契機とした漏洩防止にやくだてる、というのも、いい機会ではないかと思います。

ひねくれものだから
2008/10/17

ニュースサイトに、こんにゃく畑に同情の嵐、という記事。

これ、わたしはひねくれものだから、珍しく360度反対。

最初の事故から10年以上経過。
そして、玩具協会では、子供の誤飲がおきるので、製造しないように自主規制のある大きさそのもの。
そりゃ、玩具じゃないからそういう自主規制をしらなかった、ということで、予見可能性もなく、1−2回の事故は仕方ないでしょう。でも、当時から、専門家、リスクコンサルタントのみなさんが、上記のような理由から、あの弾力性とあの大きさの商品の危険は、充分に余地ができたし、事故がおきて、それが業界筋だけでもあきらかになってきた以上は、予見できませんでした、という言い訳は通らない。

そう、いわれていたのが、少なくとも1998年より前です(私がこの話をきいたのが1998年だから)。

その後、お年寄りとこどもは危険です、とか、すいこまないように、という掲示はするようになりましたが、直接的に命の危険があるのですから、すくなくともたばこの生命の危険の表示より大きくして当然。しかも、タバコは目がみえて理解力がある大人が対象ですから、あの程度の大きさと文章でよいと思いますが、相手はお年寄りと子供です。落ちる危険がある池に「危険だから近づかないようしましょう」だけでは、結果回避義務を果たしたことにならない=過失があり、損害賠償責任を負うことになる、という日本の不法行為法の常識からいけば、あの表示で充分に責任を回避しているとはいえないでしょう。

さらに、吸い込まないでかむようにとか、表示はするようになっていましたが、私の母ですら、かむといっても、器から出てこないので、噛むにしても、少し吸い込まないと…という感想をいっていました。パッケージに注意喚起するだけでなく、この点の改善をしてから販売をすることはある意味当然です。

消費者の目線とか、顧客の満足とかいう考え方ですべてをみるのは、私は否定的で(私のサイトに、何度かいわゆるCS経営について、批判的なことを書いていますが)、その私の目線でも、こんにゃく畑は、もはや明らかなな危険を12年も放置して、何もしてこなかった、という印象をぬぐえません。

行政から販売停止とならず、なぜか賠償問題もうまくクリアしているのは、(政治力とは考えず)馬鹿な(いや、失敬。いいかえて)非常に穏便で寛大なファンがいるから、と考えて、ファンに見限られないうちに、しっかり対策をうった新商品を出してほしい、という、声なき声と考えて、できるだけ早い段階で、新商品を出してほしいと思うところです。

「8月人脈づくり全体交流会」補足(^^)
2008/08/20

久しぶりのLP21の行事参加でした。

こんなにご無沙汰しているのに、いろいろな提案や機会を考えてくださるスタッフのみなさんには感謝申し上げます。

今日は久しぶりの参加でしたが、なんと、スピーカーの一人。壊れたスピーカーにならないように…と思っていたのですが、車に筆記用具は忘れるなど、話をしようと思うことをメモすることすらできず、ほとんどぶっつけ本番でした。

そのため、話がかなりとびました。参加してきいてくださった方にはかなりわかりづらい話だったのではないかと思いますので、この場で補足します。

話の趣旨は、
@本多さんに、信条と心がけていることと行政書士について話すようにいわれているので、これをお話します。
A信条は、「変わらない理念が小山を変える」=出身大学の120周年のコピーのパクリです。理念が必要ということは、他の方も触れられていましたが、たやすくかわらない理念があってこそ、変化のはげしい世の中に対応して変わっていくことができるんだ、ということをいいたかったのですが…。
B心がけていることは、小学生のときに教わった聖書のことば。「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、すべてのことについて感謝しなさい」。喜びは人につたわります。「感染」します。すべてのことについて感謝は、聖書=キリスト教でなくても、共通の教義ではないでしょうか。
C行政書士とは? は、大勢いるので、まとめられないが、私という行政書士は、という意味で、「自転車」です、が本日のたとえ話。大学のゼミの結論で、「市民と司法の橋渡し」は、弁護士がしていることは間違いありません。しかし、それは司法側からきた橋渡し。ならば、市民側に根付いている橋渡しとなるべく、行政書士を選びました、という話から、では、同じ橋渡しの弁護士と行政書士の違いは? というところにつながります。今日の話は、ここがぬけてしまっていましたね…。
交通手段という意味は同じですが、自転車と最高級車は役割が違います。弁護士は最高級車、行政書士は自転車から、せいぜい軽自動車です、という話をしたつもりでした。
ただ、一点補足…。だから、交通手段の相談=法務の相談は自転車の私のところにもきます。そのとき、自転車でいけるところなのか、自転車でいくべきところなのか。それを適正に判断して、高級車を使うべきときは、高級車を扱う業者=弁護士のところに早くいくことをお勧めすることも私の仕事だ、ということです。もちろん、最高級車ではなく、ときには4WDのオフロード車や、電車、新幹線をお勧めすることもあります(税理士、司法書士、その他の法律事務の専門家をここではたとえることになります)。

で、ここまでの話をきっかけに、最近の私のプライベートのトピックスである、「リカンベント自転車」の話をしました。

イメージがつたわったかどうかわかりませんので、ここに私の愛車の写真をのせておきます。

それで、自転車である行政書士を体現? するために、「市内は自転車でかけつけます」とお話しましたが、うっかりしていました。高崎は、めちゃくちゃ広くなってしまったんだ…と。旧市内、いや、旧々市内程度にまずはとどめさせていただきます、ということを、ここで補足いたします。さすがに自転車で倉淵のはずれまでいったら、1日がかりどころか2日がかりですから(^^;。

時間があれば触れたかったのは、私は一応、行政書士という専門家と呼ばれる立場にはなっていますが、まだまだ吸収の段階、ということです。いろいろ吸収し、それを加工し、最後はアウトプットすることが、大きな人生の流れだと思っています。もちろん、その3つは時に重なり合うことはもちろんありますから、「中心は吸収」の段階、という方が正確かもしれません。

仕事の都合で、後半からの出席になったのがその意味で残念で、前半のみなさんのお話を吸収できませんでした。でも、後半のみなさんのお話も、もったいないほどの吸収の題材でした。これを活用することで、お話くださったみなさんの、そしてこういう場を作ってくださった皆さまの恩に報いたいと思います。

最後は、すべてのことについて感謝しなさい。につながります。

ありがとうございました。

お役立ち! の方に
2008/08/01

会員の広場の、お役立ち! 行政書士 の方に、環境GSの紹介がありました。

たまたま関与先からこの手続きの問い合わせを受けて、私も先月調べてみましたが、これ、簡単なわりに、でも、実効性もある程度ある良い制度だと思います。

と、いうわけで、私も機会があると、関与先に紹介しています。

LP21も当然その対象になりますし。

こういうちょっとした刺激を、ほとんど行政的にはコストもかからないで実現する制度というのは、一つ一つはつまらないものかもしれませんが、このアイデアの集約で、大きな効果が生まれるような気がします。

それだけに、期待しますね!

二刀流
2008/07/29

速読。最近、私がある速読教室の広告になっているので、よく、出会う人にいわれます。「みたことがあります」と。

もう20年も前ですが、ここで速読を学び、最後は教える側にもいました。

習い始めた当初、私も疑問に思いました。詩とか短歌などは、速く読むことがよいことかどうか…。情緒的な文章も同じです。

でも、今までの人生で、今の読み方しかしらなかった。別の読み方をしって、読み方をかえるという選択肢がふえると考えたらいかがでしょうか? と、そのときのインストラクターは教えてくれました。

そう、文章の読み方だって、いろいろな方法があっていいはずです。

私は不器用なので、虻蜂取らず状態ですが、歌も同じ。
趣味で合唱をはじめてから、合唱の発声方法というのは、やはり、J−POPをカラオケでうたうのとは違うといわざるをえません。そんな中、なぜ、そんなに発声にこだわるのか、と、指導者にくってかかる団員がいたことを思い出します。ある典型的な古典的な名曲を、別に日本的な発声、J−POPの発声でうたったとしても、それはそれで新しい芸術の表現方法じゃないか、という趣旨の意見でした。

が…これ、使い分けられたら、もっと世界がひろがって、歌をうたうこと自体が楽しくなるし、豊かになると思います。片方しかできないで、なんでもその発声でうたうよりも、曲によって、あるいは1つの曲の場面場面で使い分ければ、それはもっと楽しい世界があるんじゃないか…。

そう、似た部分として、私は、パソコンのタイピングは、NICOLA入力とローマ字入力を、人並みにはできると思います。最初に覚えたのはローマ字入力でした。その後、NICOLAを覚えて、なんとなくその感覚の違いを実感したものです。当時はワープロ検定を基準にして、10分あたり何文字入力できるか、というのが、入力速度の基準でしたが、今はローマ字で500文字程度、NICOLAで900文字程度でしょうか。だから、速度的にはNICOLAの方がはるかに楽ですし、NICOLAの利点といわれる思考の妨げもありませんが、しかし、文章の内容や場面によってはローマ字の方が効率がよいと感じることがときどきあります。こんなところでも、結果は同じものを求めるとしても、2つ以上の方法があることによる豊かさではないかと思います。

旅もしかり。先日、篠山までいきましたが、行きは夜行バス、かえりは夜行快速列車。それぞれに趣のある旅でした。

と、趣味の範囲はよいのですが、さて、これからが本題。最近思うのは、使い分けられる技術が必要なのに、最近、日本国民は失っていないか、というある技術です。

それは、歌ではなくて、話し言葉の「発声法」。

子供のころ、「天井がお空のときは大きい声を出していいよ」と、親にいわれた記憶がなんとなく残っています。ようするに、「お外」=屋外では元気に声を出しなさい。そして、そうではないとき=室内では、話相手に聞こえるだけの小さいこえで話をしなさい、と教えられた、という記憶です。

私ももう、海援隊の「そろそろ人生真ん中あたり〜」(って、古い歌ですが)ではないですが、すでに全日本人の半分以上の年齡となりました。ですから、半分より下の若い世代に問いたいのは、「話ことばの発声方法として、あなたは2種類以上を使い分けていますか?」ということです。

たとえば、静かなレストランと、居酒屋で、同じ発声をしていたらどうでしょう。うるさい東京の繁華街を歩くときと、地下道を歩くとき、電車の中での会話…。みな、同じに声を出したらどうでしょうか。

大きな声をだせばいいのか。とあるチェーンの回転寿司は、一度いって二度と再びいくか、と思いました。食べている間、店員がうるさい。元気なのと、はっきりと挨拶したり、注文するのは違う。たしかに、もしかすると、何ホンなのかを音量計ではかったら同じかもしれません。しかし、それは音質が違うし、響き方、人の耳での聞こえ方がまったく異質なものです。応援団の声と、教会の聖歌隊の声の違い以上に違いがあると思います。

それが、お客にもいえるわけで…居酒屋で、あるいは騒がしいファミレスで話をするのと同じ発声で、静かな電車の中、静かなレストランでの会話。

最近まで、うるさい迷惑なヤツ、と思っていましたが、最近は、場所によって、声の出し方を使い分けられないかわいそうな連中、というように思えることか出てきました(でも、迷惑だと思うので、こういうのはいない方がいい)。逆も悲惨で、いつも静かな響きのよいところで話をして、そういう場所での発声しかしらない人の声は、最近のバカな、大声だけが良しとする連中のグループに入ると、自己主張のない声の小さい消極的な人、というレッテルを貼られやすくなります。

どっちもそうではないと思います。

こんなこと…LP21の話し方教室でもやるのかな…と、時間があれば一番参加したい教室なので、ふと、思うのでした。

少なくとも声の出し方は、二刀流はおろか、できるだけたくさんの方法をしっている方が、便利だし、その方が、世界全体を平和にするのでは、と思うのでした。

テレビネタ等でミーハーに
2008/07/21

テレビって基本的に嫌いで、もし、今独り暮らしだったら、地デジ全面以降を契機にテレビはいらないと思っています。が…テレビっ子の母がいるかぎり、家はテレビはなくならない…。

それはともかく。まぁ、母がテレビをつけているので、耳には飛び込んできます。ほとんどみてはいないので、聞こえてくる程度がほとんどなのですが。

最近のコメンテーターとか「専門家の○○さんにお話をうかがいます」という、ドキュメンタリーやニュース番組の当然のことば。

この話を聞くたびに、これまたミーハーなのですが、中島みゆきさんの「時刻表」という歌をいつも思い出してしまいます。

あまりにも象徴的な、この歌の歌詞のワンフレーズ。

誰が悪いのかを言いあてて どうすればいいかを書きたてて
評論家やカウンセラーは米を買う
迷える子羊は彼らほど賢い者はいないと思う
あとをついてさえ行けば なんとかなると思う
見えることとそれができることは 別ものだよと米を買う
(中島みゆき作詩「時刻表」より引用)

テレビって、この別物だよと米をかって高笑いしているやからの後押しをして、迷える小羊を手玉にとっているさらにとんでもないやから、としか思えないような、ひどいコメント、なにかに偏ったコメントばかり。

いや、偏っているのは百歩ゆずってよしとしても(それが資本主義だ、といえばそれまでだから)、そもそも専門家といえるほど、この人は知識や情報をもっているの? というレベルのコメンテーターや専門家があまりにも多いような気がします。

まぁ、レギュラーコメンテーターは、自分の専門外もきかれることもあり、仕方ないかもしれない。でも、ならば、「専門外なのでわかりませんが、一個人としてこう思います」くらいの一言はつけるべきではないか…。私のHPの日記に以前書きましたが、この一言がないばかりに、すばらしい作詞家だと思っていた某N氏には、失望した経験もあります。たかだか作詞家なんだから、わからないことはわからないと、素直にコメントしてくださいよ、と、いくつかの、あまりにも無知を露呈するコメントを聞いて思ったものです。

テレビネタといえば、NHKの連続テレビ小説。今は、ストリートダンスと里親制度という、実に微妙なテーマを扱っています。でも、一つだけ同意したのは、この児童相談所の方々が、いつも新米でいい、という趣旨のことをいっていたこと。「○○していさえすればいい」というベテランのふりをした姿勢はいけない。人を相手にする仕事で、「○○すればいい」は、絶対にありえないと私も思いますので(と、以前に書きましたね…介護職の方の発言を題材として)。

学者、研究職として、そのような絶対的な手法をみつけることは、夢かもしれません。たとえば、○○していれば犯罪はおきない、というものを発見した学者かいれば、それはすごいことでしょう。でも、そんなの今はありえない。常に例外をみとめて、例外をいかに救うかが、むしろ今は研究テーマになりえると思います。

なのになぜ、今のテレビに出てくる専門家、コメンテーターは、そういう口調で論じるのか。まぁ、テレビ的には断定して言い切ってくれる方がわかりやすいから、そういう発言をする方に出演をお願いしているのかもしれません。

だとすると、まさに、上記の「時刻表」の構造で、専門家はマスコミにおだてられて便利に利用されて、ますます「いうこととできることは別」などとぬかしてボロもうけ。マスコミはそれをあおるだけでまるもうけ。そんなもんなんでしょうか。

なぜ中学生は父親を殺したのか。なぜ秋葉原の凶行を模倣するIT犯罪がふえるのか。そういうことも、自説が唯一絶対のごとくいう専門家と称される方々の意見を聞いていると、どこかで「いうこととできることは別だ。いわれるから発言しているだけだよーーーん」と、あざ笑っているような気がしてなりません。

そして…

いつものように、そういう専門家にならないようにと、自分にいいきかせるのでした。

クライアントに個々に具体的に対応すること
2008/07/15

私事ですが、母がもう40年選手の糖尿病です。

この中で、なんとこの言葉に出会い、なんど悔しい思いをしたか。

「糖尿だから仕方ない」
「糖尿によるものだから、まずは糖尿を」

最近、高齢も手伝って、この言葉をきくことが増えました。

そんなこと、それこそ、糖尿病40年選手の母はわかっています。
医大を出て、ペーペーのあんたがいわなくても、あんたが生まれる前から糖尿なんだよ。と、よほど母のかわりにいいたくなる。

たかだか表面的に、机上の空論で医学書の勉強をして、マニュアルを読み上げるように上記の発言をする医者。若い医師だけでなくて、年配でも、不勉強なやからは同じでしょう。

咳き込んで苦しいから医者にいくわけです。糖尿と腎臓病がこれほど密接な関係があるなんて、最近まで教わりませんでした。だから、医者にいくわけです(糖尿病性腎症をいわれて)。胸の痛みがあって医者にいきます。便秘とか、末梢神経の異常と思われる症状があるからいきます。足指も壊疽の心配があるから、また、糖尿ならではのタコや、つめの異常もあるからいきます。

それぞれの症状に困って医者にいくわけです。

そこでいわれるのが、冒頭のふたこと。

そんなことは、医者にいわれなくてもわかっています。

そして、指示されることは、まずは糖尿のコントロールをしなさい。

ええ、いわれることはしていますよ。いわれること、一般に糖尿病でやるべきとされていることをしているのかいないのかすらわかっていない状況で、よく、その言葉をいえますね。

ついついそういいたくなる。

なんか、機械のように、糖尿をわずらっていて、こういう症状の人がきたら、「まずは糖尿のコントロールを」といいなさい、と、マニュアルにでも、権威ある医学書にでも書いてあるのでしょうか。

それらなそれでも結構。医学書、大先輩、大先生がいっているから、目の前に具体的個別な症状でこまっているクライアントがいても、オウムのようなことをするのですか。

最近、医者にいく母につきそう機会がふえました。
こっちも忙しい中、うかがっているのです。
だいたい、1人10分でおわるはずのない診療なのに、なんで30分に3人の予約をいれるのか。そういう病院の経営体質もおおいに疑問です。とくに生活習慣病の患者は、なんども通院していますから、1度あたりの診察時間も統計的に把握できるはずですから、それに応じてせめて予約システムをプログラムしてもいいのでは…と思いますが、これはちょっと今日のテーマからははずれますかね。

時間をさいて医者にいって、どの医者も口をそろえて「まずは糖尿のコントロールを」。だけしか言わないといっても過言ではない。

まずは、具体的にあらわれた症状の改善を試みる方が先決では?
まずは、コントロールができないないならば、なぜできないないのかを、個別具体的に検討するのが先決では? 糖尿は糖尿「症候群」ともいうべきほど、原因も症状のあらわれ方も違うということは、もう何度もききました。なら、そのように対応しなさいよ! 画一的な「処理」(そもそも人相手の商売で、「処理」はないと思いますが、今の医療は、ベルトコンベアにのっかった患者を処理しているだけです)してすませるのですか。

blogにもしていないから、この日記を心あるお医者様がみてくださる可能性は低いでしょう。反対に、こころない医者野郎が見る可能性も低いですが。

なぜ、クライアントの現実に目をむけないのか。

母につきそって医者にいくたびに思うと同時に、私自身の仕事でも、目の前のクライアントに、個別具体的に対応しているか、形式的に処理していないか、と反省することがあるこのごろです。

弁護士法72条論
2008/06/25

民民業務をやる行政書士にとっては、永遠のテーマ? のように言われるタイトルのもの。

ようするに、法律事務、法律相談を弁護士以外がしてはいけませんよ、というやつです。

先日、この弁護士法72条をあつかっている本に対する「カスタマーレビュー」をみました。明らかに、弁護士によるレビューです。内容は、頭ごなしに「結論ありきで、国民の利便性を笠に、いいたい放題」という趣旨のレビューでした。

このレビューを読んだとき、がっかりしました。

弁護士って、本当にその程度の人物もやっているんだ…と。

司法試験って、半端じゃなく難しいです。
でも、資格試験はどうでもいい。弁護士さんと行動をともにして、弁護士の実態(の一部)を見せていただいたり、人間的な側面がチラホラでてくる酒の席での姿をみさせていただいたこともある隣接法律職の一人として、「さすが弁護士」と、尊敬もしていたし、敬意ももっていたのですが…。こういうレビューを書く、低俗な(ええ、これが名誉棄損だというなら、どうぞ訴えてください、当の弁護士さん。特定できるでしょうから)人もいるのだと…。

よく、アメリカが嫌い、と私はいいます。アメリカ的合理主義と称して、わずかな歴史しかなく、戦後の成り上がり、成り金の集団、人権擁護といいながら、世界でもっとも多数の差別をしている国が、そして、ヒステリック、利己主義。英米法の根底には自然法思想その他があるからこそ、判例法主義を貫けるのだと私は思うのですが、そういう根本原理、基本や思想を無視しているとしか思えない…そんなやからが何をいうか! と、思うからなのですが。弁護士って、そういうやからと同じなんですかねー。

形式的に、人間的な側面とか、権利・義務だけではない世界、領域をのぞけば、たしかにごもっともですが、活躍していて、一線の弁護士さんは、そういう方はいない…と信じていたとうか、信じたいと思っていたのですが。

と、いうのは言い過ぎなのはわかっています。たった一人のくだらないレビューをみて、弁護士全部がそういうくだらない奴だと思うのは、実に合理的ではない。だから、たった一人の下らない、IT好きな弁護士が、いきおいで、もしかしたら酔っぱらって書いたレビューだと信じて、弁護士全体はまともだと信じましょう。これからも。

さて、そういうことはおいておくとして、行政書士としての立場にもどって考えると、たしかに、なにかあったときに、訴えられたりする根拠条文は弁護士法72条かもしれません。でも、その解釈論をたてるまえに、そもそも行政書士法1条の2について、十分な理解、解釈はあるのでしょうか。まず、そこを十分に論議してから、72条論は論じるべきではないかと私は思います。

弁護士法コンメンタールなどでも、司法書士法との関係に関する判例であり、現状ではリーディングケースとなっている判例があります。その判例の要旨は、個別の法律が認めた範囲までは弁護士法違反とは考えられない、という趣旨だとされています。そうすると、弁護士法72条がどうだ、と論じるまえに、行政書士法1条の2が何をいいたいのか、何を定めたのかを論じる方が優先だし、確実な職域確保になると思うからです。

なのに、ここが曖昧…。

弁護士法72条といえども、刑罰をかする根拠となる以上は罪刑法定主義が働きます。曖昧な条文であることはたしかで、そうだとすると、制限的に解釈する法理がここに働くことになります。それがどこまで制限するかを論ずるよりも、行政書士法1条の2という職域を定めた法律を理解する方が先ではないでしょうか。

この解釈をするときに、最後はなにが大事か。

国民のためになる行為かどうか、ということに最後はつきると私は思います。もちろん、明白に両方の条文の趣旨にふれるものはともかくとして、個別具体的な事例の判断となったときは、弁護士法違反として行政書士あるいは他の隣接法律職を罰するのが国民のためになるのかどうか。

そういう観点でみると、行政書士法1条の2というのは、1条の目的規定とあわせて読むと、それを誠実にまもっているれば、国民に資することは明らかです。

行政書士の皆さん、まずは、1条と、1条の2を、真剣に読み込んで解釈理解してみましょうよ…。

そして、行政書士以外の LP21 の会員の方もここをみていらっしゃると思いますが、そういう、国民のために活躍する行政書士が増えることをきっと望んでいらっしゃると思います。

(念の為…国民のためならば何をしてもいい、という趣旨ではありません。上記のとおり、明白に両方の条文の趣旨にふれるものが違反だ、ということまでは、「国民のため」ということをもってしてもくつがえりません。そのように理解したりそれを主張したら、冒頭の、くだらない弁護士(と思われる方のレビュー)のいうとおり、ということになります。

そもそも、役割が違うことを考えれば、職域争いはなくなると思うのですがね…。

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